今日の言葉

無心の修行と究竟覚

2026 . 10 . 22

好き嫌いを超えた、本来清浄な心を見つめてください。

人は生きていくなかで、絶え間なく外の対象に出会い、それに応じて好き嫌いの心を起こします。美しい宝石や貴重な宝物を見れば欲しいという心が生まれ、香り高い麝香をかげば喜びを感じます。反対に、汚いものや悪臭に出会えば、不快感や拒む心が起こります。

このように心は、六根が六境に出会う瞬間に絶え間なく反応し、その反応から貪欲と怒り、執着と分別が起こります。こうした心の働きが、衆生を煩悩と苦しみにつなぎとめます。

では、修行者はこのような対象にどう向き合い、どのように無心を実践すればよいのでしょうか。

まず、好き嫌いを知ることと、それに執着することは別だと理解する必要があります。

美しいものを美しいと知り、香り高いものを香り高いと感じ、悪臭を不快に感じるのは、自然な感覚の働きです。けれども、美しいものを見て必ず手に入れようとしたり、嫌いなものに出会ってなんとしても押しのけようとしたりする心が起こるとき、貪欲と怒りが生まれます。

ですから、無心の修行は、感覚をなくしたり、思考を無理に止めたりすることにあるのではありません。対象をありのままに気づきながら、その対象に引きずられないことにあります。

好きなものに出会ったら貪りの心が起こるかを見つめ、嫌いなものに出会ったら拒む心や怒りが起こるかを観察してください。その心を抑えつけたり、なくそうとしたりせず、縁に従って生じては消える無常の現象として見つめるのです。

これが、取らず捨てない不取不捨(不取不捨)の修行です。

けれども、このような気づきの修行が、すぐさま究竟無心を意味するわけではありません。貪欲や怒りが起こるのに気づいて手放すことは修行の過程であり、究竟無心は、あらゆる煩悩の根である根本無明までも完全に消え去った境地です。

禅仏教でいう無念と無心は、単に思いがない状態ではありません。妄念と執着を離れ、本来清浄な自性の智慧が現れることを意味します。

特に、性徹スニムの頓悟頓修の思想で強調される究極の悟りは、一時的に煩悩が休まる状態ではなく、根本無明までも完全に断ち切られた究竟の悟りです。

有念は衆生の境界であり、究竟無心は仏の境界です。

しかし、無心という境地を得ようとする思いまで残っているなら、なお得ようとする主体と得るべき対象が存在します。真の無心は、無心という思いにさえとどまりません。

能所の分別、つまり認識する主体と認識される対象とを分ける分別が断たれ、すべての妄念が消えて、本来の清浄な智慧が円満に現れること。これが究竟無心であり、究竟覚です。

結局、修行とは、世を離れたり感覚を遮断したりすることではありません。世の中で見て、聞いて、感じながら生き、どんな対象にも心がとらわれない自由を実現することです。

美しいものを見ても貪らず、嫌いなものに出会っても怒らず、よいことと悪いことをはっきり知りながらも、取り捨てる執着にとどまらないことです。

好ましい対象に出会っても心はとどまらず、好ましくない対象に出会っても心はとらわれません。取ることも捨てることもないなかに、本来清浄な心の智慧が現れます。

これが、日々の暮らしのなかで実践していく無心修行の方向であり、究極的には、究竟無心と究竟覚へと向かう道です。

今日、気に入ったものに出会ったら、好ましいという心に、所有しようとする執着が加わっていないかを見つめてください。気に入らないものに出会ったら、不快な感じに、押しのけようとする怒りが加わっていないかを観察してみてください。

起こってくる心を抑えつけたり、無理になくそうとしたりしないでください。縁に従って生じては消える現象だと気づきながら、握りしめることも押しのけることもしない練習をしてください。

しばらく心が静かになったからといって、究竟無心に至ったと思わないでください。無心を得ようとする心にもとどまらず、修行を続けてください。

無心とは、好き嫌いをはっきり知りながら執着に引きずられない修行であり、究竟無心とは、根本無明まで消え、本来清浄な智慧が円満に現れた境地です。

美しいものを美しいと感じ、嫌いなものを不快に感じるのは、自然な感覚の働きです。修行はその感覚をなくすことではなく、そこから起こる貪欲と怒りに気づき、執着に引きずられないことです。

よいものを握りしめようとする心も、嫌いなものを押しのけようとする心も、抑えつけず、縁に従って生じては消える現象として見つめてください。これが、取らず捨てない不取不捨の修行です。

この気づきは修行の過程です。究竟無心と究竟覚は、根本無明まで完全に消え、得ようとする主体と得るべき対象を分ける分別さえ断たれて、本来清浄な智慧が円満に現れた境地です。日々の暮らしのなかで見て、聞いて、感じながらも、どんな対象にもとらわれず、無心を得ようという思いにさえとどまらない道へと進んでください。

翻訳を報告
嗅いでも、握りしめない香り
無心の修行と究竟覚 漫画
  1. よい香りには手が先に、いやな臭いには身体が先に動きます。
  2. 好き嫌いを知るのは自然な感覚です。その上に、握りしめたり押しのけたりする心が加わっていないか見てください。
  3. 感覚は塞がず、握った手と固まった肩だけをゆるめておきます。
  4. 静かになったという誇らしさも、過ぎゆくままにします。つかの間の静けさは、究竟無心ではありません。
  5. 花にも堆肥にも同じ手で。日々の気づきは、根本無明まで尽きた究竟覚へ向かって歩む道です。